三水会 第6回史跡巡り

(寛永寺見学会に参加して)


本坊玄関前

 去る4月11日(日)三水会主催の史跡巡りに夫婦で参加しました。この日は久しぶりの暖かい日で、残り桜もあり、見学会には良い日和でした。寛永寺見学会ということで、参加者は定員の35名を軽くオーバーする総勢49名という人気でした。

 まず始めに、根本中堂の前で寛永寺教化部の土屋青年僧による寺暦の説明に私たちは新たな認識を持ちました。特に根本中堂の前にある石の大水盤、正面にかかる『瑠璃殿』(東山天皇御宸筆)の勅額などが創建当時のものであるなど驚きと同時に今日まで気付かなかったことを恥ずかしく思いました。


東山天皇御宸筆「瑠璃殿」

 次に徳川歴代将軍の御霊廟へ向かいました。(通常非公開、今回 寛永寺様の特別の計らいで許可を得ました)ここは、石段と杉の木立に囲まれた大変静寂な場所でありました。そして、時折うぐいすの声を聞くことができました。(うぐいす谷の由来・・・関東のうぐいすは声がなまっていると法親王がおしゃって関西より大量のうぐいすを持ってきた) 徳川家の菩提寺といえば、芝 増上寺といわれるのに、六名の将軍の霊廟があるのは、将軍家の祈祷寺として発足した寛永寺が やがて将軍家の菩提寺も兼ねるようになったからであると説明を受け納得できました。




根本中堂の前で

 御霊廟では最初に五代将軍綱吉公の御宝塔に案内されました。 土屋師より「墓前でありますから、御宝塔の前では合掌して頂きます」と言われた時、「そうだ、今日は記念物を見に来たわけではない」と気付かされました。

 霊廟様式では、宝塔はお墓ではなく、将軍は宝塔内に安置されている御本尊の足下で 安らぎの眠りにつくという考えから造られていて、中門の内側は極楽浄土の世界であると説明されて、これは新しい発見でした。


徳川将軍御霊廟




慶喜公謹慎の間

 続いて、八代将軍吉宗公,十一代将軍家定公と案内していただきました。 家定公の隣には大河ドラマでもおなじみの篤姫の宝塔があります。 通常夫人等の墓所は別に設けられるのですが、篤姫は徳川家に大変貢献があったのでこのように夫婦並んで埋葬されたのであろうと説明を受け、幕末の歴史の中で彼女も主役の一人であるのだと改めて思いました。

 最後に慶喜公謹慎の間に案内されたが、いかに謹慎中に使用していた部屋とはいえ余りにも小さいので、将軍が生活するにはさぞ窮屈であったろうことを思いました。 また、ここには寛永寺の往時を垣間見ることのできる多くの資料が展示してありました。

 見学会が終わり、戴いた寛永寺のパンフレットを読みながら昔日の寺の広大さ、創建された天海僧正と徳川家との関係、江戸庶民の生活を思いながら空模様の変化に追われるように家路に着きました。『合掌』

文責 石井義久、美晴

追記(東叡山寛永寺について)

東叡山寛永寺は徳川家の安泰と江戸庶民の平安を祈る道場(祈祷寺)として寛永二年(1625年)天海大僧正の尽力により発足しました。
山号の東叡山とは東の比叡山の意味で、寺号の寛永寺とは延暦寺が勅許を得て延暦という年号を寺号としたのと同様に寛永の年号を用いました。
その後の造営も比叡山延暦寺にならって行われ整備されていき、現在の上野公園中央噴水の地に、五代将軍綱吉公が建立した根本中堂は江戸随一の大きさを誇る建物でありました。 また、四代家綱公の時、後水尾天皇の第三皇子、一品守澄法親王が入山し、朝廷より輪王寺宮の称号を下賜され、以来幕末まで山主は輪王寺宮(法親王)によって承け継がれました。
輪王寺宮は東叡、比叡、日光の三山の山王を兼帯し、三山管領の宮ともいわれました。それゆえ江戸時代の天台宗の実質上の本山となるばかりでなく、輪王寺宮の存在によって広くわが国宗教界全体の上に立つ存在となりました。


江戸時代の寛永寺